シン・ゴジラ(ネタバレあり・観た人向け)
「まずは君が落ち着け」
なぜ、みんな、そんなに好きなんだ。
『シン・ゴジラ』が。
ポケモンGOにしても、そんなにゲーム好きだったっけか、という人までやっているように見えて驚いたのだけれど、『シン・ゴジラ』に関してはもっとびっくりである。
観た人観た人、みんな誉めている。
予告がテキトーすぎたのは「思ったよりずっと良かった」を作り出すための布石だったのか?
それとも、とりあえずメインキャラクターの喋っているなかで、ネタバレにならず、かつ尺に合う台詞を、という制約からひねり出したのだろうか?
知人は「出来ていないんじゃないかと思っていた人もいたらしい」と言っていた。
それ、君のことだろ。
とにもかくにも、『マッドマックス 怒りのデスロード』のようなお祭り具合である。
細かな要素(スーツ姿で乱舞する男性たち、それぞれに奮闘する女性たち、特撮、軍事、過去作やら関係作やら関係者へのオマージュおよびパロディ、、、)に反応する人たちがいて、
これらにそこまで食いつかない人もいて、
なのに、
ざっくりとした雰囲気を伺ってみたところで、どうやら「好評」ということになるらしい。
世界が狭いせいなのは大いにありうることだが、わたしのTwitterのタイムラインはほぼ毎日なにかしらのネタが回ってくる。
なんでみんなそんなに好きか、『シン・ゴジラ』。
かくいうわたしも好きだ。発声可能上映も行ってみた。娯楽としてかなり楽しかった。
もう既にあらゆる考察が出回っているので、そこに埋没するつもりで、まず2回分(発声上映はノーカウント)の感想やモヤモヤ考えたことを書いておきたい。
ひねくれ者のへそ曲がり気質が出ていると思うので、気分が悪くなったら「そっ閉じ」を推奨。
まず、監督が持つ細部へのこだわりがゆるぎないものであろうことは、パンフレットやネットに出回っている小話で言われているとおりである。
「それらしい感じで、と言われたのでとりあえず揃えておきました」とか言ったらぶん殴られそうな現場だ。
『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』でシキシマがいつも食べている林檎に「ふじ」を持ってきてOKを出した人には見習ってほしい。
映画『進撃の巨人』に関してはものすごく原作ファン!というわけでもないのにやたら憤りを憶えてしまったので、この話はまた別にしなければならない。
で。
白状すると、実は、1回目では冒頭の15分を見逃している。
逃げ惑う人々、破壊される街、(文字通りに)巨大な脅威、これらが映る画面に圧倒されるというよりも、「ん?何?あれ?」ってな状態。
9.11のビル崩壊の、3.11の津波の、あの映像が流れ続けるだけの画面を、「なんじゃこれ?」と眺めていたときと重なった。
置いて行かれた感じ、乗り遅れた感じ。
思えばここで世界観に没入する機会をすでにいくばくか失っていたのかもしれない。
ただ、ここからはキャラクターたちのターンになる。
まず会議で隅っこから目も上げずに発言する尾頭ヒロミ(市川実日子)のすっぴん(っぽさ)にかなりの好感を抱いた。
市川実日子があの仏頂面でたんたんと早口でまくしたてているのがもうツボだった。
役者に舌が回りきらないくらいの早口で喋らせるという演出があるとは聞いていたが、『トットテレビ』で満島ひかりがしゃべっていた口ぶりや、昭和期の映画やラジオ音声に特徴的な流れるような口調が好きなので期待していた。
結果、巨災対(ゴジラと闘うためのオーシャンズ的なチーム)の面々が見事に早口で、早口演出好きとしては俺得だった。平泉成だけは相変わらずなので、役のキャラクターとあいまって強調されている。
各所で言われていることだが、登場人物の描かれ方は「人間大勢」のうちの誰それ、という感じだ。野間口徹をふた言だけ使うというやり方はアリなのかと再確認させられた。妙な話だが。
わたしはミッションインポッシブルみたいに「少人数で何もかもやりおおせてしまう」というスタイルにはついつい「ないわー」と思ってしまいポンと飛び込めないタイプなので(MIシリーズを見るときは物語よりもキャラクターを見ている)、
たとえほとんどしゃべらなくても、どこかに「顔見せ」があれば「どこかでがんばっているんだろうな」と思えた。
全員きちんと名のある役者なのだが、入れ替わり立ち代わりで情報を出しては去っていくあたり、なんだかミステリ小説を読むか、歌舞伎でも見ているような気分だった。
そういう面ではかなり伝統的なつくりのエンタメ作品なのだろう。
俳優のファン層まで把握しているかもしれないと思わせる、役と役者をマッチさせる説得力のあるキャスティングは確実に人気の一端であろう。
それがいかに少数でも、誰かが心から「わたしたちの・俺たちの物語だ」と思えなければ、そのフィクションは必要とされないのだから。
そう、 問題は、「わたしたちの物語だ」と思うこと、ここにある。
「この国はまだやれる」
「最期までこの国を見捨てずにやろう」
実力を持ちながら権力に押さえつけられていた巨災対のメンバーをとりまとめ、鼓舞し続ける矢口蘭堂の言葉をどうとるのか。
これはわたしたちの物語だ、と感じられる人たちは、あの大量のキャストのどこに自分を投影しているのか。
ある人は牧でありゴジラだという。日本人は核に深くかかわってきた。ゴジラと、その生みの親ともに、怒っている、嘆いている、苦しんでいる、と。
ある人は蒲田や鎌倉や首都圏の住人だという。御社が。弊社が。我が家が。見慣れた風景が破壊され、コミュニティは散逸する。
これらは重なり合ってもいる。
そして見過ごせないのが、行政、巨災対のメンバーたち、ひいてはその指示を受けて動く無数の人々である。
都庁の地下でも、市ヶ谷でも、血液凝固成分の特定にも、凝固剤の製造にも運搬にも、ヤシオリ作戦にも、名前の出てこない人たちが書類と電話とパソコンを抱えて早歩きしている。
あの中に自分の後ろ姿を見出すひとは多いのではないか。
無力な政府に替わる巨災対というカウンター勢力の、カリスマを持つリーダーのもとでなら、わたしたちは、おれたちは、まだまだ(実はかなり)やれるのだ、そのはずだ、と。
『シン・ゴジラ』でいちばん巧みだと思ったのはここである。
声高にリーダーシップがリーダーシップがと叫ばれるリーダー不在の国で、誰もがリーダーを待望している。
「よいリーダーさえいれば、自分たちは実力を発揮できる」という声は、裏返せば「今のリーダーがよくないがために、自分たちは実力を発揮できていない」ということだ。
その気持ちは未来に向けてだけではなくて、もしかしたら過去にも向かっている。すなわち、あの震災のとき矢口が、赤坂が、泉がいたなら。わたしたちはきっとやれたのに、と。(「なにを」というのはもちろんぼんやりしている、回顧なのだし)
とにかく、『シン・ゴジラ』は、「その他大勢」の人たちを肯定してくれる。毎日当たり前のようにハードワークで頑張ってくれているみなさんのおかげで、滞りなく分析も済み、プラントも動き、都民は避難し、在来線や新幹線は無人強力爆弾として活躍できる。マジ感動ですよ。
しかし。
現実の日本に矢口蘭堂はいない。
『シン・ゴジラ』という映画の見どころはリアリティにあるという。会議シーンの、戦闘シーンの、街路の、画面に映るハードでのリアルさ。それは、ゴジラという荒唐無稽な存在を観客に飲み込ませるためでもあり、肝になっている「現実にはない状況(強力なリーダー:矢口の存在)」というソフトでの非リアルさをそうとは気づかせないためのオブラートなのである。
観客を熱狂させ、肯定感まで得る、そのよりどころが徹底的に実在するらしく描かれた非実在のキャラクターなのだ。
しかも実在するらしい場所と観客の立つ場所は限りなく同じに見える。映画館を出た東京のどこかに、巨災対のメンバーがひょいと居てもおかしくないと思える。
『シン・ゴジラ』は周到である。なにかしらプラスの感情を生まざるを得ないように作られている。
やり手の詐欺師が9の事実に1の嘘をくるんで出すという逸話を思い出させる。
騙される側も気持ちよく、ときにはみずから望むような形で騙されるのだ。
あとから考えればツッコミどころはある。
それでも「ま、いいか、楽しかったし」と言えてしまう。
見る者が自分の立ち位置をわきまえていれば、安全に、強度の楽しみを得られる。
これだからフィクションは欲される。
初めて観たとき、『シン・ゴジラ』は生身の人間と特撮技術を使ってはいるが、なんとなくアニメに近いと感じた。アニメーターが描くよりも好ましいからたまたま俳優を使った、くらいに思えた。
もしアニメであったら『シン・ゴジラ』はここまでウケなかっただろう。『君の名は』の横でオタクがなんか騒いでる、くらいで収まったかもしれない。ここでもオブラートが機能しているあたり周到である。
蛇足だが、わたしは『エヴァンゲリオン』の本編をきちんと観たことがない(これから観るため再放送をせっせと録画している)。
シン・ゴジラを見終えたあと「エヴァ観たいな」とつぶやいてしまったのは必然なのかもしれない。
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サウルの息子(大規模ネタばれなし)
「ここは生者のための場所だ」
鑑賞直後の自身のツイッターから引用・改訂してお送りします。
早稲田大学大隈タワー(早稲田キャンパス入口で迷ってしまって、待ち合わせ中らしい女の子たちに訪ねたが「どこだっけそれ」と言われた)までなんとかして辿り着き、『サウルの息子』の試写を見てきた。ありがたいことに学生無料のうえ、ホロコースト生存者であるヤーノシュ・ツェグレディ氏のトークつきである。
氏は「この映画はフィクションであり、出来事の尺としては2,3日間。この作品だけからホロコーストとはなんたるかを引き出そうとするのは、「生きるべきか、死ぬべきか」の台詞のみをもって『ハムレット』を解しようとするようなものだ」と語った。
確かに、ヨーロッパ世界における長い長い反ユダヤの歴史、またユダヤ人たち自身の歴史、このコンテクストが理解されているからこそ、ある劇的な部分としての作品が深く刺さってくるのだろう。
しかしながら、はっきりといえることは(すくなくともわたしにとって)、
この映画を見れば、ホロコーストがなぜこんなにも特異なる惨事として語り継がれるべきであるかが腑に落ちるであろう、ということである。
主人公サウルはゾンダーコマンド(収容ユダヤ人のうちからSSによって選別された特別労働班)として、収容所にやってきた同胞の死体処理を担わされている。
所持品回収と「シャワー室」の後始末のかわりに、他の収容者よりもましな食事や、背中に大きく赤い×印の入った(元は誰かのものだった)上着、帽子などを与えられている。
彼の眼は常に暗い。筋肉の動かし方を忘れたような無表情で死体をひきずる。
『イメージ、それでもなお』においてジョルジュ・ディディ=ユベルマンが扱っているという(じつは未読)、あの写真のエピソードが挿入される。ストーリーにおいてはやや唐突な気もしたが、思い返せば、あの光景をカラーで繰り広げるというのが映画の目的の一つなのだろう。
なんでそうなるかといえば、映画の初めに内心にあった「もうこんなの耐えられん」という嫌悪感が、サウルの物語を追ううちに薄らいでいくのを感じるからである。それはサウルの物語が進行するにつれ屍体が最初ほどひんぱんに画面に映りこまなくなるためばかりではなく、山のような屍体がある光景に慣れてしまう、背景として見過ごすことができるようになってしまう、という恐るべき人間の順応性によるのだ。
サウルが感性を殺したのは意図的かもしれないが、無意志的でもあるかもしれない。
監督は、あの光景を「目にし続ける」ことで人間が確実に死んでいくのだと言いたかったのではないか。その危機感が、危険を冒してまであの4枚の写真を撮らせたのだと。
そして私がこの映画のテーマとして感じ取ったのは、生者と死者―言い換えるなら自己と他者の関係性という、関心を持って勉強中の事柄であった。
「ここは生者の場所だ」という台詞。アウシュヴィッツ・ビルケナウで発されるこの言葉の意味とは何であろう。
サウルが「息子」を埋葬しようとする。毎日コマンドたちは同胞を「火葬」する。
葬送儀礼は生者のための、否、生者が死者と関係をむすぶためのシステムであるということがあらためて呈示されている。サウルは息子の埋葬のためにのみ自発的に生き、コマンドたちは同胞を「火葬」する仕事を全うことで生き長らえていられる。生者たちは死者たちによって生かされている。
この「死者によって生かされる」ことに自覚的になるのが葬送(と、それに付随する供養)の儀礼であるといえよう。だから、生を蹂躙することで死が生まれるのは当然ながら、死(の、生者による取り扱い)を蹂躙することもまた生を蹂躙することにつながっている。このあまりにも不毛な円環が「はるかに悲惨な真実」―焼却棟の庭で缶に入って埋め残された当時のメモより―を成している。
生と死という経験は個人に対して起こる事変だが、これを描くのはけっして個人にのみ帰される物語ではない(ヤーノシュ氏が発した"individual"が耳にこびりついている)。
ホロコーストの悲惨さとは、ひとつには人間のもつ特質である社会性・集団性がゆえに発生し、進行してしまったであろう事態のそれが挙げられる。ヒトがひとでなければ起きなかったであろう性格・規模・構造をもった殺害、それがホロコーストである。
そういう意味で、この映画は人間とは何か?を問う「宗教学」的にも見る事ができるはずだ。「宗教」的にではなく。
付け加えて、生存者であるヤーノシュ氏やイスラエル大使館イリット・サヴィオン・ヴァイダーコルン公使が「この映画―フィクション―のみによって<ホロコースト>を理解できるわけではない」と強調し、「ホロコーストについては教育が重要である、学び、伝え継がねばならない」と言うこと。個人の体験としては容易に語りえぬことがらを伝えるにあたり、フィクションはしばしば有効である。
映画を見ていると疑問も湧いてくる。教育や伝達のきっかけとして、問題提起として、機能的である。
たとえば、収容されるユダヤ人たちの中の多様性。サウルはハンガリー語を話す。ドイツ語も解するらしい。コマンドの中にはドイツ語がわからない者もいるようだ。<ラビ>はフランス語でサウルに呼びかける。彼らはナチスドイツが侵略した地域から集められているようだが、ナチスが規定するように一律な存在であるとは考えにくい。
また、死体をいちいち焼却させていること自体、見る側にユダヤ教の基本知識がなければ非効率的と見えるかもしれず、またそうした宗教的約束事というのはどの程度の力をもって当時の収容されたユダヤ人たちに受け止められるものだったかも理解すべきだろう。
…と、ゴチャゴチャ言ってみたところで、それはしょせん後付けのこと。なにも知らなくてもまず観てみることだ。
確かにこの作品によってホロコーストの時代に分け入るというよりも、むしろ現時点の私に引き寄せてもらったという感覚がある。しかも、「絶望の中でも意志を持って闘おう」という明朗さによってでなく、むしろ逆のベクトルによって。もし商業主義的姿勢のみでこの作品が撮られたならば、サウルが得た救いは無視され「非業の英雄たち」を描いていたかもしれないと想像するとゾッとする(それはそれで別の価値があるはずだけれども、ただ一介の「戦争映画」となったであろう)。
監督がしっかりと信念を持って作り上げたラストの演出に怖気と共感とを持てるようにありたいものだ。
いろいろ抽象的に長くなってしまったけれども、サウルにピントをあわせ背景をぼかす特徴のある映像の作り方や、常に話し声・環境音がしている音響効果は単純に新鮮で生々しかった。とくに、聞こえてくる会話らしきもの(何語なのかもわからない)に対して日本語字幕がとても控えめなのだ。
読みやすさを保つための制約という面もあるのだろうけれど、はっきりとした意味がとれるようなとれないようなざわめきに、そこに他人がー生きている他人が、いや、もしかして此岸のものか彼岸のものかは判然としないかもしれないけれどもー「いる」のだとわかる。
壁の暗がりに他者がいる。自分でないものがいる。だから、自分がいることがわかる。私は世界に融けていない。わたしはわたしとしてここにある。
観たあと語りたくなるので、ご覧になるとき1人ではおすすめしません。
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「女の子」の微睡。
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夢。
ひとことであらわすなら、この物語は、夢だ。
主人公はコラン。しかし、語り手はクロエ。
それに気づくのは、映画が終わった後。
クロエが肺を病んで手遊びに描くタブローそのものだけが目に見える世界では真実だ。
白いノートにサインペンで綴られる一枚いちまい、ネズミに救われるパラパラマンガであるそれら。
画面全体を覆うのは絶妙なるミックス感。シュールとキッチュとキャッチーとグロテスクとファインアート。デペイズマンとマジックリアリスムでつくられた限りなく魅惑的なパリの情景。
一番輝いているのはコランの生活をたっぷり見せてくれる冒頭シーン。
いかにステキな男の子が「女の子」と出逢ったのかを語る描写のかずかずが続く。彼はお金持ち、お洒落で美食家、趣味はたしかにフツウっぽくないけれど、何も知らない他人をも十分にワクワクさせる「発明」だ。
家事を取り仕切る完璧な友人(またまたオマール・シー!)と、作家’パルトル’に心酔しその思想に染まるアブナイ友人を持つ。
コランの家はなにかと伸び縮みするうえドアベルが生きていたりするけれど(もちろん字面通りに)、なんといっても全体的に魅力的な住まいだ。
情熱家だが照れ屋で、スペックのわりに女慣れしておらず、ただキメるときには、ばっちりロマンティック(雲に乗ってパリ上空をお散歩デートとは月島雫もビックリするだろう)。
オーマイガー。
(以降ネタバレ!)
続きを読むセッション(ネタバレなし)
あなや、芸の道。
フレッチャー役のJ.K.シモンズがアカデミー助演男優賞を獲ったのをWOWOWでみていたのだけれども、いざ作品をみてみると、マイルズ・テラー演じるアンドリューの瞳の暗さのほうが肝心な気がした。
「ウォールフラワー」をもっと突き詰めて、現実味を薄めずにいくとこんなふうになるのかもしれない。あっちはハイスクールの’フリーク’グループの青春小説だけどもあくまでハッピーエンドすぎず、語られない陰があるのが好感がもてた。
しかしあんな上手い話はそこいら中にあるわけもなく、高校時代をカーストの中の下に息をひそめて生き抜いた、そんな主人公がアンドリューだ。
あか抜けていなく、不器用で、見た目も自信がもてるほどのものでなく、周囲に心から応援されて順風満帆なわけでもなく(音楽をやろうという人にどのくらい順風満帆な人がいるのかという話ではあるけれども)、それでも深夜に自主練習をかさねているアンドリューの瞳には暗い熱が宿る。
自室の壁に「クズ野郎はドラムを叩け」というポスター。反対されても押し切り、この学校に入ってみせ、他の学生が遊んでいる中も深夜まで練習している。そしてどうやら伝説の教師フレッチャーの目に―否、耳に、留まったらしい。
音楽、美術、演劇、映画、文学、服飾、etc.…芸(Arts)の道を志したことのある者なら誰もが胸に覚えのある感覚ではないか。認められないことすら自尊心を燃やす薪にして、俺はあいつらとは違うんだ、傑出した存在になるんだ、と手探りで進み続ける。
地方大学の特待生やアメフトのMVPを報告する従兄弟たちと、それを称賛する大人たちに囲まれて、なおもそれを目指さなかったアンドリューが一体どんな気持ちでドラムセットの前に就いていることか。
友人、ガールフレンド、親戚づきあい、父親との関係、自分の生活。何かとドラムを天秤にかけるたび、ふらふらと決まったほうの皿が沈む。
自分はそういうふうにできているのだ、と覚悟を決めたアンドリューの瞳は暗い。関節から血が流れ、汗みずくにまみれ、壮絶な形相の彼はまさに一度死のうとしている。
フレッチャーは教師というよりも1人の音楽家である。
彼にバンドの誰もが従うのは暴力のためでなく、彼が生み出す音楽そのものや、彼から巣立っていった音楽家がすばらしいのを身をもって知っているからだ。
フレッチャーの瞳はアンドリューと逆で、きらきら輝いている。透ける色みに音楽への愛情が浮かぶ。怒り心頭に発してさえも光を透す。その眼が「いいぞ、いいぞ」と言いながら指揮する数分間に加わるため、バンドメンバーたちはあらゆる理不尽を甘受し、しぶとく生き残る。
音楽の感動が理論のみで片づけられることがないように、この関係も道理で割り切られるものではない。
いつか、あの暴君に落涙させるプレイヤーに。メンバーたちは黙々と練習する。
汗や血まめや涙などなかったかのようなきらきらしい演奏シーンの幸福感は調整された光がつくりだす。
金管楽器の真鍮、木管楽器のキー、ドラムセットのシンバル、ライトそのものまで、ガスランプやフィラメント電球色のレトロな光が舞台やスタジオをかがやかせる。ジャズ音楽のきらめきを視覚化さえしてみせ、「ラッパにうつつを抜かしやがって」と言われてきたであろう者たちを奮い立たせる。
一瞬の天界と永続の苦行が表裏一体だとわかってはいるはずなのだが、しかしその道を選ばなかった者からしてみると納得しがたい。それもまた事実である。
血塗れのアンドリューに狂ってる、と言える人、また
「密告者はお前だな――俺をナメるな」
と言い放つフレッチャーに大人げないとか冷徹な鬼だとかサイコパスだとか言ってしまえる人たちは、そうやって自分から切り離して、うまく片づけてしまえる。
しかしそうやって折り合いをつけることの困難さ、哀しさをもわたしたちは知っている。アンドリューとフレッチャーにほんのわずかでも共感をおぼえてしまう性がある。すくなくとも、Artsに心さらわれることのあるひとには。
それが、この映画にひきつけられる理由だ。
ふたりがただひたすら己をたたきつけあうクライマックスは、映画館で見てよかったと思う。
ひなぎく(がっつりネタバレ)
うがった見方…なのかなあ。
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イメージフォーラムでメモリアル上映の予告をみたとき「伝説の女の子映画」みたいな言われ方をしていた気がする。2013年あたりのELLEにテーマ別おすすめ映画の特集があって、「最近元気のない女友達に」という枠に入れられていたような。雑誌は捨ててしまったので手元にない。
しかし『「女の子」映画』ってなんなんだ。「アメリ」みたいな、ちょっと「浮いてる」女の子が主眼の作品なのか。それを見るべきと想定された「女の子」って、噂の「オリーブ」を好むようなひと(たち)のことだろうか。
では『女子映画』っていったい…と考えると、もう「プラダを着た悪魔」しか出てこない。あれは「女の子」より「女子」といえるのでは。
どっちにしろからかいの対象にも自虐の要素にもなりうるが、「女子」に一文字入るだけでこの差別化。日本語ってすごい。
・・・。
でも。画面を見る限り、これらの方向性はどっちにしろ違うんじゃないだろうか?
そんな印象のまま、DVDを探していた。学校図書にあった。
キャッチーでポップンなジャケット。
2人の女の子は年配の男性(地方紳士で、週末だけ都会に出てきている?)をひっかけては食事をおごらせ、ナイトクラブでは追い出されるような悪戯をし、なにもなければプールで日光浴をして過ごしている。
雑誌の切り抜きが壁じゅうに貼られた整頓されているとは言いがたいアパルトマンの部屋。(自室を思いだしてしまい冷や汗)
姉妹なのか友人なのか、ふたりは妙におなかを空かせている。高いレストランで、実によく食べる。
それが男をドン引きさせるためのおふざけなのか、平日はあまりモノを食べずにピクルスやソーセージで食いつないでいるからなのかは判然としない。
若さの比喩ととらえることもできる。
あるいは暴力性、破壊性とか。ふたりの生き方は無頼な、フツウじゃないものだ。
中盤ごろ。自転車に乗った人々がたくさん通る道に出くわし、ふたりが「あたしたち見えていないんだわ」とはしゃぐシーンがある。
早朝、朝帰りのふたりと出勤する人びとのすれ違い。渋谷や新宿なんかでも見られそうな光景。
彼らにふたりは見えていないのではなくて、むしろあこがれのようなものを抱いてさえいるのだ。だからこそすぐそばをすり抜けながら意図的に無視している。
自転車に乗った人たちのなかに、あまりにもたやすく、私は自分をみつける。
(以降ネタバレ!)
続きを読むBlue (内容のネタバレなし)
名前のとおり青い映画である。
「アンナの光」
を思いうかべる。
「青」(イヴ・クライン) との関連がwikipediaには書いてあるけれど、私はこれをはっきりとは知らなかった。
たぶん。
青の対が青であるよりも、青の対が赤であるほうが、なんだか好みだというだけ。
なのかもしれない。
例外もある。
観る者にとって、対称/対照 性がほしければ色が決まるのは当然であるから。
映画はスクリーンに映される光学映像とそれに付される音声楽曲でできている。
当たり前のことだけれども、しみじみと思う。
この作品は全編英語で、字幕がついていなければぼんやりとしか意味はとれないし、
かといって視界は変わらず青いままなので、ざわめくカフェをありありとしたイメージに浮かべてみたく、ではためしに目をつむってみようかとも思うが、
しかし目をつむるととたんに(私の悲しき英語力のためにますます事態は明確化するのだけれど)、何を話しているのか明確にはつかめなくなり、たまらず瞼をあけてしまい、字幕を追わざるをえなくなるので、結果、映し出される青をもみつめつづけることになる。
連名のプロデューサーとして日本人があげられている、たしかにこの映画は母語と同等にはわからないような音声を字幕で見なければ映画についての映画としては意味がないのである。
逆にロンドンで上演するなら日本語で淡々と吹き替えるべきなのかもしれない(本当のところなにが行われたかは知らない)。
そういう意味ではインスタレーションであるといえる。
音楽、音響効果、環境音、静けさがどうしようもなく好い。
……
美術史の講義をうけていて、マネ論をそれは丁寧に解説してもらい、グリーンバーグの「絵画=物性から逃れえぬ、色(絵具)面である ことへの自己言及性 を宿す のがモダニズム絵画である。云々。」という意見を紹介されたとき、すっと脳内を通り過ぎたいつかのブラウザの記憶があり、ノートの隅っこに「アンナの光」を(実際には「あの赤い絵」と)走り書きした。
そしてべつの講義で監督の紹介をうける。その独特なセンシティブそうな眼つき、なんとなく知っているのは不自然な知名度の名前に、電球ぴかっ。という感覚であったので、図書に行ってみた。
いつだったか手に取って観ずに棚へ戻した青いパッケージをさがした。
一度手に取っても書架へ帰す本がそうであるように、斬新さはいまも確かにあるのだが、中学時代の同級内の有名人を町で見かけたときのような懐かしさをまず感じる。
目に入ってはいたけれど、かかわりあいになる以前の段階で立ち止まってしまった。
近頃は本を読むにしてもそんなことのくりかえし。
やっとこっちに来やがったかと、むこうが言っている。