うらがみ

偏った視点からの映画などの感想

ムード・インディゴ うたかたの日々(ネタばれあり)

 

「女の子」の微睡。

 

 

夢。

ひとことであらわすなら、この物語は、夢だ。

主人公はコラン。しかし、語り手はクロエ。

それに気づくのは、映画が終わった後。

 

クロエが肺を病んで手遊びに描くタブローそのものだけが目に見える世界では真実だ。

白いノートにサインペンで綴られる一枚いちまい、ネズミに救われるパラパラマンガであるそれら。

画面全体を覆うのは絶妙なるミックス感。シュールとキッチュとキャッチーとグロテスクとファインアート。デペイズマンとマジックリアリスムでつくられた限りなく魅惑的なパリの情景。

 

一番輝いているのはコランの生活をたっぷり見せてくれる冒頭シーン。
いかにステキな男の子が「女の子」と出逢ったのかを語る描写のかずかずが続く。彼はお金持ち、お洒落で美食家、趣味はたしかにフツウっぽくないけれど、何も知らない他人をも十分にワクワクさせる「発明」だ。
家事を取り仕切る完璧な友人(またまたオマール・シー!)と、作家’パルトル’に心酔しその思想に染まるアブナイ友人を持つ。
コランの家はなにかと伸び縮みするうえドアベルが生きていたりするけれど(もちろん字面通りに)、なんといっても全体的に魅力的な住まいだ。
情熱家だが照れ屋で、スペックのわりに女慣れしておらず、ただキメるときには、ばっちりロマンティック(雲に乗ってパリ上空をお散歩デートとは月島雫もビックリするだろう)。
オーマイガー。

(以降ネタバレ!)

 

ふたりは喧嘩もするけれど、すぐ仲直りできる。

’パルトル’の講演会に行ってもみくちゃにされたり、なんやかやと楽しみながら、いつしか世界はじりじりと色褪せていく。

ネムーン先で「女の子」の胸に入った小さな花粉が芽吹いたために、暮らしは一変する。彼女は常に花に囲まれていなければ息ができない。

毎日花を届けさせるコラン。計ったかのようにアブナイ友人も無心に来る。

さあ、コランのお金が底をつく。

遺産と利子を崩して暮らしていた高等遊民のコランはついに働き始める。身と心を削る仕事だ。
はじめて搾取に合うコランは、それでもクロエに尽くす。

ベッドを埋める花の中、クロエが眠そうにマスカラを塗るシーンがある。うとうととまどろみながらも鏡を見つめ、化粧をやめない「女の子」。
思い出のパーティーでかかったレコードを聞きながら笑んでみせ合う2人の世界はすっかり灰色になっている。

その姿はあまりに痛々しく、またあくまでも美しい。

 

終わりはあっけない。

女の子は自分の死骸など当然見たくも考えたくもないのだ。

自分だった肉体にキスしてくれる彼もいいかもしれないけれど、そうしてくれたところで私は起き上がることができないのだから。

彼は私を置いていくだろう。きっと老いて―措いて―いく。

だから幕引きをこうするしかないの。クロエが言い訳がましくコランを行動させる。

あくまでも夢の語り手=夢を観る者 によって主人公は動かされているのだ。

パルトルの言葉は意味をなさず、本は燃え盛り、世界は白黒に。

文系女子はきっと胸を痛めるだろう。

「女の子」=クロエ=私たち は、たぶん幸せにはなれない、と耳が痛いほど了解済みのことをつきつけられる。

己がつくりあげる夢のうちにあるほんのひとときをのぞいては。

 

予告編にいい意味で裏切られること間違いなし。

ビジュアルに劣らず音楽がこれまた素敵なのである。