セッション(ネタバレなし)
あなや、芸の道。
フレッチャー役のJ.K.シモンズがアカデミー助演男優賞を獲ったのをWOWOWでみていたのだけれども、いざ作品をみてみると、マイルズ・テラー演じるアンドリューの瞳の暗さのほうが肝心な気がした。
「ウォールフラワー」をもっと突き詰めて、現実味を薄めずにいくとこんなふうになるのかもしれない。あっちはハイスクールの’フリーク’グループの青春小説だけどもあくまでハッピーエンドすぎず、語られない陰があるのが好感がもてた。
しかしあんな上手い話はそこいら中にあるわけもなく、高校時代をカーストの中の下に息をひそめて生き抜いた、そんな主人公がアンドリューだ。
あか抜けていなく、不器用で、見た目も自信がもてるほどのものでなく、周囲に心から応援されて順風満帆なわけでもなく(音楽をやろうという人にどのくらい順風満帆な人がいるのかという話ではあるけれども)、それでも深夜に自主練習をかさねているアンドリューの瞳には暗い熱が宿る。
自室の壁に「クズ野郎はドラムを叩け」というポスター。反対されても押し切り、この学校に入ってみせ、他の学生が遊んでいる中も深夜まで練習している。そしてどうやら伝説の教師フレッチャーの目に―否、耳に、留まったらしい。
音楽、美術、演劇、映画、文学、服飾、etc.…芸(Arts)の道を志したことのある者なら誰もが胸に覚えのある感覚ではないか。認められないことすら自尊心を燃やす薪にして、俺はあいつらとは違うんだ、傑出した存在になるんだ、と手探りで進み続ける。
地方大学の特待生やアメフトのMVPを報告する従兄弟たちと、それを称賛する大人たちに囲まれて、なおもそれを目指さなかったアンドリューが一体どんな気持ちでドラムセットの前に就いていることか。
友人、ガールフレンド、親戚づきあい、父親との関係、自分の生活。何かとドラムを天秤にかけるたび、ふらふらと決まったほうの皿が沈む。
自分はそういうふうにできているのだ、と覚悟を決めたアンドリューの瞳は暗い。関節から血が流れ、汗みずくにまみれ、壮絶な形相の彼はまさに一度死のうとしている。
フレッチャーは教師というよりも1人の音楽家である。
彼にバンドの誰もが従うのは暴力のためでなく、彼が生み出す音楽そのものや、彼から巣立っていった音楽家がすばらしいのを身をもって知っているからだ。
フレッチャーの瞳はアンドリューと逆で、きらきら輝いている。透ける色みに音楽への愛情が浮かぶ。怒り心頭に発してさえも光を透す。その眼が「いいぞ、いいぞ」と言いながら指揮する数分間に加わるため、バンドメンバーたちはあらゆる理不尽を甘受し、しぶとく生き残る。
音楽の感動が理論のみで片づけられることがないように、この関係も道理で割り切られるものではない。
いつか、あの暴君に落涙させるプレイヤーに。メンバーたちは黙々と練習する。
汗や血まめや涙などなかったかのようなきらきらしい演奏シーンの幸福感は調整された光がつくりだす。
金管楽器の真鍮、木管楽器のキー、ドラムセットのシンバル、ライトそのものまで、ガスランプやフィラメント電球色のレトロな光が舞台やスタジオをかがやかせる。ジャズ音楽のきらめきを視覚化さえしてみせ、「ラッパにうつつを抜かしやがって」と言われてきたであろう者たちを奮い立たせる。
一瞬の天界と永続の苦行が表裏一体だとわかってはいるはずなのだが、しかしその道を選ばなかった者からしてみると納得しがたい。それもまた事実である。
血塗れのアンドリューに狂ってる、と言える人、また
「密告者はお前だな――俺をナメるな」
と言い放つフレッチャーに大人げないとか冷徹な鬼だとかサイコパスだとか言ってしまえる人たちは、そうやって自分から切り離して、うまく片づけてしまえる。
しかしそうやって折り合いをつけることの困難さ、哀しさをもわたしたちは知っている。アンドリューとフレッチャーにほんのわずかでも共感をおぼえてしまう性がある。すくなくとも、Artsに心さらわれることのあるひとには。
それが、この映画にひきつけられる理由だ。
ふたりがただひたすら己をたたきつけあうクライマックスは、映画館で見てよかったと思う。