うらがみ

偏った視点からの映画などの感想

ひなぎく(がっつりネタバレ)

 

うがった見方…なのかなあ。

 

 

ひなぎく [DVD]

ひなぎく [DVD]

 

 

 

イメージフォーラムでメモリアル上映の予告をみたとき「伝説の女の子映画」みたいな言われ方をしていた気がする。2013年あたりのELLEにテーマ別おすすめ映画の特集があって、「最近元気のない女友達に」という枠に入れられていたような。雑誌は捨ててしまったので手元にない。

しかし『「女の子」映画』ってなんなんだ。「アメリ」みたいな、ちょっと「浮いてる」女の子が主眼の作品なのか。それを見るべきと想定された「女の子」って、噂の「オリーブ」を好むようなひと(たち)のことだろうか。

では『女子映画』っていったい…と考えると、もう「プラダを着た悪魔」しか出てこない。あれは「女の子」より「女子」といえるのでは。

どっちにしろからかいの対象にも自虐の要素にもなりうるが、「女子」に一文字入るだけでこの差別化。日本語ってすごい。

・・・。

でも。画面を見る限り、これらの方向性はどっちにしろ違うんじゃないだろうか?

そんな印象のまま、DVDを探していた。学校図書にあった。

 

キャッチーでポップンなジャケット。

 

2人の女の子は年配の男性(地方紳士で、週末だけ都会に出てきている?)をひっかけては食事をおごらせ、ナイトクラブでは追い出されるような悪戯をし、なにもなければプールで日光浴をして過ごしている。

雑誌の切り抜きが壁じゅうに貼られた整頓されているとは言いがたいアパルトマンの部屋。(自室を思いだしてしまい冷や汗)

姉妹なのか友人なのか、ふたりは妙におなかを空かせている。高いレストランで、実によく食べる。

それが男をドン引きさせるためのおふざけなのか、平日はあまりモノを食べずにピクルスやソーセージで食いつないでいるからなのかは判然としない。

若さの比喩ととらえることもできる。

あるいは暴力性、破壊性とか。ふたりの生き方は無頼な、フツウじゃないものだ。

中盤ごろ。自転車に乗った人々がたくさん通る道に出くわし、ふたりが「あたしたち見えていないんだわ」とはしゃぐシーンがある。
早朝、朝帰りのふたりと出勤する人びとのすれ違い。渋谷や新宿なんかでも見られそうな光景。
彼らにふたりは見えていないのではなくて、むしろあこがれのようなものを抱いてさえいるのだ。だからこそすぐそばをすり抜けながら意図的に無視している。

自転車に乗った人たちのなかに、あまりにもたやすく、私は自分をみつける。

 

(以降ネタバレ!)

 

クライマックス、空腹のあまりふたりが劇場に忍び込む。最上階には豪華なバンケットルームがあり、晩餐会の用意がされている。

おいしい!と口に入れるばかりか、ケーキを投げつけ、タルタルステーキを踏みつぶし、皿を割り、テーブル上を、部屋全体を、このうえなく蹂躙する。

そのまま逃げおおせるわけはなく、ふたりはあんなにかわいらしいワンピース姿だったのが、新聞紙で全身をぐるぐる巻きにされ、「片づけ」を始める。

きちんとしなくちゃ。もとどおりに。きれいに。

しかしテーブルクロスは汚れ、酒瓶は粉々、料理は腐っていく。もとにもどせはしない。

ぐっちゃぐちゃの晩餐会に、ふたりに振り回される大人たちに、ついつい同情を禁じ得ないが、それではふたりはなんなのだろう?これまでその若さとキャッチーな魅力と、危うさと天真爛漫さを私たちに見せつけ、画面いっぱいに謳歌してきた彼女たちは?

新聞紙でくるまれ紐で縛り上げられた姿は生ごみか割れ物のよう。

いつでも捨てられる状態にある。

 

映画の最初と最後に戦時の映像が挿入される。誰もがふたりのようであったなら、戦争など起きなかったにちがいない。

しかし彼女たちだけで生きていくことはできないのだから、田舎紳士たちや、自転車に乗る人々や、アパルトマンの大家の女性や、農家のようなひとたちが必要なのだ。

これを最後まで見たら、考えずにはいられないだろう。

自分はどっちで生きていくか?

 

 

文系らしい言い方をすれば「バッカスの巫女」の2人の女の子。

壊したり、無駄遣いしたり、意味のない(ように見える)ことを行ったりするのが役目だ。

あるときは人を楽しませ、あるときは疎まれる。

 やつらにかまけているひまはない、と言われるときにこそ、きっともっとも必要な存在。

そういう意味では、「アイドル」なのかも。

 

 

結論:「女の子映画」は、最大公約数的表現であるから、いちいち目くじら立ててはいけない。『ムード・インディゴ』も「女の子映画」なんだもの...