うらがみ

偏った視点からの映画などの感想

サウルの息子(大規模ネタばれなし)

 

「ここは生者のための場所だ」

 

www.finefilms.co.jp

鑑賞直後の自身のツイッターから引用・改訂してお送りします。

 

早稲田大学大隈タワー(早稲田キャンパス入口で迷ってしまって、待ち合わせ中らしい女の子たちに訪ねたが「どこだっけそれ」と言われた)までなんとかして辿り着き、『サウルの息子』の試写を見てきた。ありがたいことに学生無料のうえ、ホロコースト生存者であるヤーノシュ・ツェグレディ氏のトークつきである。

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氏は「この映画はフィクションであり、出来事の尺としては2,3日間。この作品だけからホロコーストとはなんたるかを引き出そうとするのは、「生きるべきか、死ぬべきか」の台詞のみをもって『ハムレット』を解しようとするようなものだ」と語った。
確かに、ヨーロッパ世界における長い長い反ユダヤの歴史、またユダヤ人たち自身の歴史、このコンテクストが理解されているからこそ、ある劇的な部分としての作品が深く刺さってくるのだろう。
しかしながら、はっきりといえることは(すくなくともわたしにとって)、
この映画を見れば、ホロコーストがなぜこんなにも特異なる惨事として語り継がれるべきであるかが腑に落ちるであろう、ということである。

 

 主人公サウルはゾンダーコマンド(収容ユダヤ人のうちからSSによって選別された特別労働班)として、収容所にやってきた同胞の死体処理を担わされている。
所持品回収と「シャワー室」の後始末のかわりに、他の収容者よりもましな食事や、背中に大きく赤い×印の入った(元は誰かのものだった)上着、帽子などを与えられている。
彼の眼は常に暗い。筋肉の動かし方を忘れたような無表情で死体をひきずる。

『イメージ、それでもなお』においてジョルジュ・ディディ=ユベルマンが扱っているという(じつは未読)、あの写真のエピソードが挿入される。ストーリーにおいてはやや唐突な気もしたが、思い返せば、あの光景をカラーで繰り広げるというのが映画の目的の一つなのだろう。
なんでそうなるかといえば、映画の初めに内心にあった「もうこんなの耐えられん」という嫌悪感が、サウルの物語を追ううちに薄らいでいくのを感じるからである。それはサウルの物語が進行するにつれ屍体が最初ほどひんぱんに画面に映りこまなくなるためばかりではなく、山のような屍体がある光景に慣れてしまう、背景として見過ごすことができるようになってしまう、という恐るべき人間の順応性によるのだ。
サウルが感性を殺したのは意図的かもしれないが、無意志的でもあるかもしれない。
監督は、あの光景を「目にし続ける」ことで人間が確実に死んでいくのだと言いたかったのではないか。その危機感が、危険を冒してまであの4枚の写真を撮らせたのだと。

 そして私がこの映画のテーマとして感じ取ったのは、生者と死者―言い換えるなら自己と他者の関係性という、関心を持って勉強中の事柄であった。
「ここは生者の場所だ」という台詞。アウシュヴィッツ・ビルケナウで発されるこの言葉の意味とは何であろう。
サウルが「息子」を埋葬しようとする。毎日コマンドたちは同胞を「火葬」する。
葬送儀礼は生者のための、否、生者が死者と関係をむすぶためのシステムであるということがあらためて呈示されている。サウルは息子の埋葬のためにのみ自発的に生き、コマンドたちは同胞を「火葬」する仕事を全うことで生き長らえていられる。生者たちは死者たちによって生かされている。
この「死者によって生かされる」ことに自覚的になるのが葬送(と、それに付随する供養)の儀礼であるといえよう。だから、生を蹂躙することで死が生まれるのは当然ながら、死(の、生者による取り扱い)を蹂躙することもまた生を蹂躙することにつながっている。このあまりにも不毛な円環が「はるかに悲惨な真実」―焼却棟の庭で缶に入って埋め残された当時のメモより―を成している。
生と死という経験は個人に対して起こる事変だが、これを描くのはけっして個人にのみ帰される物語ではない(ヤーノシュ氏が発した"individual"が耳にこびりついている)。
ホロコーストの悲惨さとは、ひとつには人間のもつ特質である社会性・集団性がゆえに発生し、進行してしまったであろう事態のそれが挙げられる。ヒトがひとでなければ起きなかったであろう性格・規模・構造をもった殺害、それがホロコーストである。
そういう意味で、この映画は人間とは何か?を問う「宗教学」的にも見る事ができるはずだ。「宗教」的にではなく。
 付け加えて、生存者であるヤーノシュ氏やイスラエル大使館イリット・サヴィオン・ヴァイダーコルン公使が「この映画―フィクション―のみによって<ホロコースト>を理解できるわけではない」と強調し、「ホロコーストについては教育が重要である、学び、伝え継がねばならない」と言うこと。個人の体験としては容易に語りえぬことがらを伝えるにあたり、フィクションはしばしば有効である。
映画を見ていると疑問も湧いてくる。教育や伝達のきっかけとして、問題提起として、機能的である。

たとえば、収容されるユダヤ人たちの中の多様性。サウルはハンガリー語を話す。ドイツ語も解するらしい。コマンドの中にはドイツ語がわからない者もいるようだ。<ラビ>はフランス語でサウルに呼びかける。彼らはナチスドイツが侵略した地域から集められているようだが、ナチスが規定するように一律な存在であるとは考えにくい。
また、死体をいちいち焼却させていること自体、見る側にユダヤ教の基本知識がなければ非効率的と見えるかもしれず、またそうした宗教的約束事というのはどの程度の力をもって当時の収容されたユダヤ人たちに受け止められるものだったかも理解すべきだろう。

…と、ゴチャゴチャ言ってみたところで、それはしょせん後付けのこと。なにも知らなくてもまず観てみることだ。
確かにこの作品によってホロコーストの時代に分け入るというよりも、むしろ現時点の私に引き寄せてもらったという感覚がある。しかも、「絶望の中でも意志を持って闘おう」という明朗さによってでなく、むしろ逆のベクトルによって。もし商業主義的姿勢のみでこの作品が撮られたならば、サウルが得た救いは無視され「非業の英雄たち」を描いていたかもしれないと想像するとゾッとする(それはそれで別の価値があるはずだけれども、ただ一介の「戦争映画」となったであろう)。
監督がしっかりと信念を持って作り上げたラストの演出に怖気と共感とを持てるようにありたいものだ。

いろいろ抽象的に長くなってしまったけれども、サウルにピントをあわせ背景をぼかす特徴のある映像の作り方や、常に話し声・環境音がしている音響効果は単純に新鮮で生々しかった。とくに、聞こえてくる会話らしきもの(何語なのかもわからない)に対して日本語字幕がとても控えめなのだ。

読みやすさを保つための制約という面もあるのだろうけれど、はっきりとした意味がとれるようなとれないようなざわめきに、そこに他人がー生きている他人が、いや、もしかして此岸のものか彼岸のものかは判然としないかもしれないけれどもー「いる」のだとわかる。

壁の暗がりに他者がいる。自分でないものがいる。だから、自分がいることがわかる。私は世界に融けていない。わたしはわたしとしてここにある。








観たあと語りたくなるので、ご覧になるとき1人ではおすすめしません。