シン・ゴジラ(ネタバレあり・観た人向け)
「まずは君が落ち着け」
なぜ、みんな、そんなに好きなんだ。
『シン・ゴジラ』が。
ポケモンGOにしても、そんなにゲーム好きだったっけか、という人までやっているように見えて驚いたのだけれど、『シン・ゴジラ』に関してはもっとびっくりである。
観た人観た人、みんな誉めている。
予告がテキトーすぎたのは「思ったよりずっと良かった」を作り出すための布石だったのか?
それとも、とりあえずメインキャラクターの喋っているなかで、ネタバレにならず、かつ尺に合う台詞を、という制約からひねり出したのだろうか?
知人は「出来ていないんじゃないかと思っていた人もいたらしい」と言っていた。
それ、君のことだろ。
とにもかくにも、『マッドマックス 怒りのデスロード』のようなお祭り具合である。
細かな要素(スーツ姿で乱舞する男性たち、それぞれに奮闘する女性たち、特撮、軍事、過去作やら関係作やら関係者へのオマージュおよびパロディ、、、)に反応する人たちがいて、
これらにそこまで食いつかない人もいて、
なのに、
ざっくりとした雰囲気を伺ってみたところで、どうやら「好評」ということになるらしい。
世界が狭いせいなのは大いにありうることだが、わたしのTwitterのタイムラインはほぼ毎日なにかしらのネタが回ってくる。
なんでみんなそんなに好きか、『シン・ゴジラ』。
かくいうわたしも好きだ。発声可能上映も行ってみた。娯楽としてかなり楽しかった。
もう既にあらゆる考察が出回っているので、そこに埋没するつもりで、まず2回分(発声上映はノーカウント)の感想やモヤモヤ考えたことを書いておきたい。
ひねくれ者のへそ曲がり気質が出ていると思うので、気分が悪くなったら「そっ閉じ」を推奨。
まず、監督が持つ細部へのこだわりがゆるぎないものであろうことは、パンフレットやネットに出回っている小話で言われているとおりである。
「それらしい感じで、と言われたのでとりあえず揃えておきました」とか言ったらぶん殴られそうな現場だ。
『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』でシキシマがいつも食べている林檎に「ふじ」を持ってきてOKを出した人には見習ってほしい。
映画『進撃の巨人』に関してはものすごく原作ファン!というわけでもないのにやたら憤りを憶えてしまったので、この話はまた別にしなければならない。
で。
白状すると、実は、1回目では冒頭の15分を見逃している。
逃げ惑う人々、破壊される街、(文字通りに)巨大な脅威、これらが映る画面に圧倒されるというよりも、「ん?何?あれ?」ってな状態。
9.11のビル崩壊の、3.11の津波の、あの映像が流れ続けるだけの画面を、「なんじゃこれ?」と眺めていたときと重なった。
置いて行かれた感じ、乗り遅れた感じ。
思えばここで世界観に没入する機会をすでにいくばくか失っていたのかもしれない。
ただ、ここからはキャラクターたちのターンになる。
まず会議で隅っこから目も上げずに発言する尾頭ヒロミ(市川実日子)のすっぴん(っぽさ)にかなりの好感を抱いた。
市川実日子があの仏頂面でたんたんと早口でまくしたてているのがもうツボだった。
役者に舌が回りきらないくらいの早口で喋らせるという演出があるとは聞いていたが、『トットテレビ』で満島ひかりがしゃべっていた口ぶりや、昭和期の映画やラジオ音声に特徴的な流れるような口調が好きなので期待していた。
結果、巨災対(ゴジラと闘うためのオーシャンズ的なチーム)の面々が見事に早口で、早口演出好きとしては俺得だった。平泉成だけは相変わらずなので、役のキャラクターとあいまって強調されている。
各所で言われていることだが、登場人物の描かれ方は「人間大勢」のうちの誰それ、という感じだ。野間口徹をふた言だけ使うというやり方はアリなのかと再確認させられた。妙な話だが。
わたしはミッションインポッシブルみたいに「少人数で何もかもやりおおせてしまう」というスタイルにはついつい「ないわー」と思ってしまいポンと飛び込めないタイプなので(MIシリーズを見るときは物語よりもキャラクターを見ている)、
たとえほとんどしゃべらなくても、どこかに「顔見せ」があれば「どこかでがんばっているんだろうな」と思えた。
全員きちんと名のある役者なのだが、入れ替わり立ち代わりで情報を出しては去っていくあたり、なんだかミステリ小説を読むか、歌舞伎でも見ているような気分だった。
そういう面ではかなり伝統的なつくりのエンタメ作品なのだろう。
俳優のファン層まで把握しているかもしれないと思わせる、役と役者をマッチさせる説得力のあるキャスティングは確実に人気の一端であろう。
それがいかに少数でも、誰かが心から「わたしたちの・俺たちの物語だ」と思えなければ、そのフィクションは必要とされないのだから。
そう、 問題は、「わたしたちの物語だ」と思うこと、ここにある。
「この国はまだやれる」
「最期までこの国を見捨てずにやろう」
実力を持ちながら権力に押さえつけられていた巨災対のメンバーをとりまとめ、鼓舞し続ける矢口蘭堂の言葉をどうとるのか。
これはわたしたちの物語だ、と感じられる人たちは、あの大量のキャストのどこに自分を投影しているのか。
ある人は牧でありゴジラだという。日本人は核に深くかかわってきた。ゴジラと、その生みの親ともに、怒っている、嘆いている、苦しんでいる、と。
ある人は蒲田や鎌倉や首都圏の住人だという。御社が。弊社が。我が家が。見慣れた風景が破壊され、コミュニティは散逸する。
これらは重なり合ってもいる。
そして見過ごせないのが、行政、巨災対のメンバーたち、ひいてはその指示を受けて動く無数の人々である。
都庁の地下でも、市ヶ谷でも、血液凝固成分の特定にも、凝固剤の製造にも運搬にも、ヤシオリ作戦にも、名前の出てこない人たちが書類と電話とパソコンを抱えて早歩きしている。
あの中に自分の後ろ姿を見出すひとは多いのではないか。
無力な政府に替わる巨災対というカウンター勢力の、カリスマを持つリーダーのもとでなら、わたしたちは、おれたちは、まだまだ(実はかなり)やれるのだ、そのはずだ、と。
『シン・ゴジラ』でいちばん巧みだと思ったのはここである。
声高にリーダーシップがリーダーシップがと叫ばれるリーダー不在の国で、誰もがリーダーを待望している。
「よいリーダーさえいれば、自分たちは実力を発揮できる」という声は、裏返せば「今のリーダーがよくないがために、自分たちは実力を発揮できていない」ということだ。
その気持ちは未来に向けてだけではなくて、もしかしたら過去にも向かっている。すなわち、あの震災のとき矢口が、赤坂が、泉がいたなら。わたしたちはきっとやれたのに、と。(「なにを」というのはもちろんぼんやりしている、回顧なのだし)
とにかく、『シン・ゴジラ』は、「その他大勢」の人たちを肯定してくれる。毎日当たり前のようにハードワークで頑張ってくれているみなさんのおかげで、滞りなく分析も済み、プラントも動き、都民は避難し、在来線や新幹線は無人強力爆弾として活躍できる。マジ感動ですよ。
しかし。
現実の日本に矢口蘭堂はいない。
『シン・ゴジラ』という映画の見どころはリアリティにあるという。会議シーンの、戦闘シーンの、街路の、画面に映るハードでのリアルさ。それは、ゴジラという荒唐無稽な存在を観客に飲み込ませるためでもあり、肝になっている「現実にはない状況(強力なリーダー:矢口の存在)」というソフトでの非リアルさをそうとは気づかせないためのオブラートなのである。
観客を熱狂させ、肯定感まで得る、そのよりどころが徹底的に実在するらしく描かれた非実在のキャラクターなのだ。
しかも実在するらしい場所と観客の立つ場所は限りなく同じに見える。映画館を出た東京のどこかに、巨災対のメンバーがひょいと居てもおかしくないと思える。
『シン・ゴジラ』は周到である。なにかしらプラスの感情を生まざるを得ないように作られている。
やり手の詐欺師が9の事実に1の嘘をくるんで出すという逸話を思い出させる。
騙される側も気持ちよく、ときにはみずから望むような形で騙されるのだ。
あとから考えればツッコミどころはある。
それでも「ま、いいか、楽しかったし」と言えてしまう。
見る者が自分の立ち位置をわきまえていれば、安全に、強度の楽しみを得られる。
これだからフィクションは欲される。
初めて観たとき、『シン・ゴジラ』は生身の人間と特撮技術を使ってはいるが、なんとなくアニメに近いと感じた。アニメーターが描くよりも好ましいからたまたま俳優を使った、くらいに思えた。
もしアニメであったら『シン・ゴジラ』はここまでウケなかっただろう。『君の名は』の横でオタクがなんか騒いでる、くらいで収まったかもしれない。ここでもオブラートが機能しているあたり周到である。
蛇足だが、わたしは『エヴァンゲリオン』の本編をきちんと観たことがない(これから観るため再放送をせっせと録画している)。
シン・ゴジラを見終えたあと「エヴァ観たいな」とつぶやいてしまったのは必然なのかもしれない。
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