Blue (内容のネタバレなし)
名前のとおり青い映画である。
「アンナの光」
を思いうかべる。
「青」(イヴ・クライン) との関連がwikipediaには書いてあるけれど、私はこれをはっきりとは知らなかった。
たぶん。
青の対が青であるよりも、青の対が赤であるほうが、なんだか好みだというだけ。
なのかもしれない。
例外もある。
観る者にとって、対称/対照 性がほしければ色が決まるのは当然であるから。
映画はスクリーンに映される光学映像とそれに付される音声楽曲でできている。
当たり前のことだけれども、しみじみと思う。
この作品は全編英語で、字幕がついていなければぼんやりとしか意味はとれないし、
かといって視界は変わらず青いままなので、ざわめくカフェをありありとしたイメージに浮かべてみたく、ではためしに目をつむってみようかとも思うが、
しかし目をつむるととたんに(私の悲しき英語力のためにますます事態は明確化するのだけれど)、何を話しているのか明確にはつかめなくなり、たまらず瞼をあけてしまい、字幕を追わざるをえなくなるので、結果、映し出される青をもみつめつづけることになる。
連名のプロデューサーとして日本人があげられている、たしかにこの映画は母語と同等にはわからないような音声を字幕で見なければ映画についての映画としては意味がないのである。
逆にロンドンで上演するなら日本語で淡々と吹き替えるべきなのかもしれない(本当のところなにが行われたかは知らない)。
そういう意味ではインスタレーションであるといえる。
音楽、音響効果、環境音、静けさがどうしようもなく好い。
……
美術史の講義をうけていて、マネ論をそれは丁寧に解説してもらい、グリーンバーグの「絵画=物性から逃れえぬ、色(絵具)面である ことへの自己言及性 を宿す のがモダニズム絵画である。云々。」という意見を紹介されたとき、すっと脳内を通り過ぎたいつかのブラウザの記憶があり、ノートの隅っこに「アンナの光」を(実際には「あの赤い絵」と)走り書きした。
そしてべつの講義で監督の紹介をうける。その独特なセンシティブそうな眼つき、なんとなく知っているのは不自然な知名度の名前に、電球ぴかっ。という感覚であったので、図書に行ってみた。
いつだったか手に取って観ずに棚へ戻した青いパッケージをさがした。
一度手に取っても書架へ帰す本がそうであるように、斬新さはいまも確かにあるのだが、中学時代の同級内の有名人を町で見かけたときのような懐かしさをまず感じる。
目に入ってはいたけれど、かかわりあいになる以前の段階で立ち止まってしまった。
近頃は本を読むにしてもそんなことのくりかえし。
やっとこっちに来やがったかと、むこうが言っている。